「あら!いけない!もうこんな時間だわ。マックス、ミレーヌのこと頼むわね。ミレーヌもパパの言うことしっかり聞くのよ。」



朝、日差しがやわらかく差し込むリビングに慌ただしい足音が響く。手に持った淹れたての珈琲の水面にうっすらと波が立つ程だ。マックスは新居を構える際に特別に誂えた木目の美しいダイニングテーブルに片手を付き、その光景を微笑ましく見つめた。普段は自分の方が彼女より先に出勤してしまうし、こうしてゆっくりと朝を迎えることなどここしばらくなかったからだ。前々から申請していた今日の有休だって、本当はこの忙しい時世に、と休む暇を惜しまず連勤するほかの隊員たちを思い後ろめたさを感じていたのだが、部下からの後押しもありようやく取ることの出来たものだった。マックスは、吹き抜けのエントランスに備え付けられた大きな鏡に身を映し、最後の仕上げとばかりに形の整った唇に鮮やかなルージュを引くミリアの姿に目を奪われる。結婚してからもうかなり長い月日が経とうとしているが、彼女の美しさはその経年に関わらず、いや、年を重ねるごとに増しているようにも感じられた。出会った時のあどけなさの残る少女のかんばせもそれは愛らしかったが、こうして共に暮らし、子を産み、母となった彼女もまた芳しく匂い立つ華のように美しい、と思う。マックスは手に持った珈琲をテーブルの上へに置くと、ミリアの立つエントランスへと歩みを進める。彼女の名を呼び、ミレーヌのことは心配いらないよ、と言うと、彼女の両頬に掠めるように口づけを落とす。それは新婚当時によくしていた、無事を祈る願掛け、任務への労い、そして相手への愛情の証だった。(といっても己の記憶によるとつい数年前まで行っていたと思うのであるが。最近は互いに仕事を違えてしまったからいつしかそんな習慣も途絶えてしまっていた。)ミリアは少し驚いたように目を大きく見開いたが、次第にその表情はその行為を懐かしむような笑みへと変わった。どうしたのよ、いきなり、と照れ隠しであろうか、すこしつっけんどんな口調でそう言うと、彼女はマックスの頬に白樺のように白く繊細な手のひらを添えた。彼の頬に口づけなかったのは、先程引いたルージュが落ちることを懸念したためだ。
だがミリアはふと己の腕時計を一瞥し、マックスの頬から手を離すと、焦ったような表情を浮かべる。いくら特A級のドライビングライセンスを所有している彼女でも、もう出発しなければ間に合わない時間である。ミリアは、じゃあ、行ってくるわね、と早口に言い足早に出掛けていった。己の頬に残る彼女の手のひらの感触が少し恋しかった。指先のひんやりとした冷たさに、彼女のここ最近の過労働ぶりを思い、一抹の懸念を抱く。
その場にぼんやりと立ちつくしていると、ダイニングのソファに腰掛けていたミレーヌがぴょこん、と飛び跳ねるようにソファから降り、玄関に立つマックスの腕に己の小さな手を掛ける。どうしてママに行ってらっしゃいのキスをしなかったのか、とマックスが訊ねると、だって、パパとママのじゃましちゃあいけないでしょ、とミリア譲りの愛らしい顔に悪戯な笑みを浮かべてそう云った。マックスは一瞬驚いたような顔を見せたが、はは、と声を上げて笑い出し、愛娘を抱き上げてその桃色に色づく頬にキスをした。

今日、マックスが彼にしては珍しい有休を取ったのには訳があった。それについて思い立ったのはちょうどひと月前のことだったろうか。その日マックスは寝室の壁に掛けてあるカレンダーに目を向けた。なんでもない平日。カレンダーの日付の数字の下に設けられた余白には何の記載もなく、国民総出で祝うような祝日であるわけでもない。だけど。その日は特別な日だった。たった一人の大切なひととの偶然とも運命ともいえる出会い。誰もが自分達を奇異のまなざしで見ていた。全く以て”天才”という奴は何を考えているのか理解ができない、と皆が呟いた。そんな声に反逆するかのようにむしろ二人は強く惹かれ合い、そして繋がり合った。自分達の婚姻は人類の、彼女の惑星の種族をも動かすものであったと自負している。その記念となる日が今日だったのだ。ミリアとの結婚記念日。もう共に歩むようになって25年の月日が流れようとしていたのだった。毎年、結婚記念日になると、マックスとミリアはそれこそ盛大に祝宴を催すことはしなかったが、二人で食事に出掛けたり、家族の団欒の機会を設けたりしていた。しかし、今年は互いの仕事の多忙さがピークに達した時期であったり、それによってまともに会話をする暇さえも奪われてしまっていたから、マックスには彼女が今日という記念日を覚えているのかすら判断できなかった。ただ、例年の、というより、結婚当時からの彼女の性質によると、ミリアは「記念日」というものにあまり固執する性格ではないらしい。彼女の生まれ育った惑星にそもそも誕生日であったりなんらかの記念日を祝うような習慣はあったのだろうか。(少なくとも結婚を祝う習慣はないだろう、とマックスは思う。)結婚記念日に関して言えば、毎年その日が近づくと、マックスや娘達からその旨を伝えられ、それによってようやく思い出すということが少なくなかったのだ。今日だって、夫が珍しく休暇を取っていることに対して少しは疑問を持ってくれてもよかったのだが。(だが彼女はマックスや娘達の誕生日はきちんと覚えていた。自分が関わることに関してはてんで無頓着になるのだろうか。) マックスは今年、彼女にあえて何も云わなかった。もうすぐ僕達の記念日だね、とか、来週が何の日か覚えているかい、という台詞を飲み込み、娘達にもそのことを内密にするようにと伝えてある。結婚してもう25年もの時が過ぎようとしていた。地球のとある地域では、25周年、というのは特別な記念日であるらしい。それならば。

マックスは抱き抱えていたミレーヌをダイニングのソファへと下ろす。ミレーヌはそれを不服を思ったらしかったが駄々をこねながらも渋々とマックスの首に絡めた両腕をするりと解いた。ミレーヌに促され、彼女の隣に腰掛ける。するとミレーヌはマックスの膝の上へとちょこん、と座り、大きな翡翠の瞳でまっすぐにマックスを見つめる。その無邪気な表情に自然と唇が弧を描く。そういえば、こうして彼女と二人で時間を過ごすことも久しく無かったように思われた。普段、勤めを終えて帰宅するころには部屋の照明はすっかり落ち、自らも疲労困憊してそのままベッドルームへと直行することが多かったからだ。寝室で己の帰宅を待つミリアに、ミレーヌったらあなたが帰って来るまで寝ない、って駄々をこねてたのよ、などと聞くと純粋に嬉しさがこみ上げるのと共に、愛する娘の健気さに己の心に罪悪感が芽生えることも多々あった。膝に座る愛娘を後ろから柔らかく抱きしめる。くすくすと笑い出すミレーヌの細くしなやかな桃の髪が鼻先に触れてこそばゆかった。するとミレーヌは何かを思い出したようにぴん、と背筋を伸ばし、好奇心旺盛な眼をマックスに向けた。

「ねぇパパ、あたし、知ってるのよ。」
「何をだい?」

ミレーヌは何やら可笑しくて仕方がないらしい。このくらいの年頃の女の子はそうやって父親の反応を楽しんで遊ぶものなのだ、とマックスは今までの経験から心得ていた。マックスは態と、大いに気になっている、という素振りを見せながら訊ねる。

「今日は、パパとママの大事な日なんでしょう?パパとママが、フーフになった日だわ。」
「ほぅ。よく知っているね。ミレーヌ。」
「お姉ちゃんたちから聞いたのよ。」

ミレーヌまでもが今日という日を正しく認識しているとはマックスにとっては意外であった。マックスが演技ではなく純粋な驚きを以て眼鏡の奥に隠れる瞳を大きく見開くと、ミレーヌはそれが喜ばしいとでもいうように囀るように笑った。

「ねぇパパ、パパとママはどうやってであったの?なんでケッコンしたの?」

ミレーヌが訊ねる。マックスは逡巡して一瞬動作を止めたが、ミレーヌに優しく頬笑み掛け、髪を撫でながらゆっくりと、かつ心地の良いテノールで言葉を紡ぐ。それは寝る前に稚児に聞かせるお伽噺のようだ。しかしそれは安らかな眠りを誘うものではなく、伝えたい、聞かせたい銀河一幸福な二人の愛の物語だ。

「パパとママは、パイロットだったんだ。ママのバルキリーを見たことがあるだろう?パパとママは初め、敵同士で、ケンカしてたんだ。互いの顔も知らなかった。でも初めてママと闘った時、コックピットに映るママと目が合って・・・身体に雷が落ちたような・・・いやミレーヌ、本当に落ちた訳じゃないんだ、ビリビリって身体が震えて・・・そうだな、その時もう既に恋に落ちていたのかもしれないな。それから偶然街でママに再び出会ったんだ。その時初めてママの姿を見たんだが・・・それは綺麗だった。きりっとした吸い込まれそうな程深いグリーンの瞳にシルクのような髪、スレンダーな身体・・・パパは一目でママのことが好きになったんだ。そしてパパとママは結婚して、ミレーヌ達が生まれたんだよ。」

本当の史実を知るのにはミレーヌはまだ幼すぎるように感じた。二つの種族、人間とゼントラーディが互いに憎み合い、殺し合い、滅ぼし合った悲惨な戦争。沢山の仲間を失った。沢山のヒトを殺した。だけど、そこで二人は出会った。恋をして結ばれて命を授かった。それはまぎれもない事実であるから。いつか胸を張ってすべてを語り伝えてやろう。

パパとママは、銀河一幸せな結婚をしたんだよ。

「パパはママとケッコンして幸せなのね。」
「ああ、すごく幸せだよ。」
「ママのこと、あいしてる?」
「ああ」
「あたしのことも?」
「もちろんだよ。ミレーヌがパパとママの娘で幸せだ。」
「あたしもパパのことあいしてる!!あたしも、あたしのママとパパがママとパパで幸せ!!」

ミレーヌは勢いよく立ちあがり、マックスの右頬に啄ばむようなキスを落とすと、何処で習ったのだろうか、聞き馴染みのない歌を口ずさみ始める。それはどこか、かつてミリアと共に聴いた異郷の地のそれに似ているように感じて、マックスも彼の記憶に残るそれをとぎれとぎれにメロディに乗せた。眼前に浮かぶのは若かりし頃の二人の姿だ。

いつまでも美しい君へ。
これからもずっと共に生きてゆけるように、
愛し合ってゆけるように。
君は記念日なんて、と恥ずかしそうに言うけれど。
やっぱり年に一度の大切な日だと思うんだ。


「ミレーヌ、パパと買い物に行かないか。パーティの準備を手伝って欲しいんだ。」

マックスは歌い終わって再びこちらへと視線を向けたミレーヌに声を掛ける。嬉しそうに笑う彼女の笑顔にかつての妻の姿が見えたような気がした。

外界へと繋がるドアを開けると、一年中快適な気温に保たれた船団らしく柔和な日差しと心地よい風が身体を優しく撫でる。最寄りの比較的大規模なショッピングモールまでは車も不要な距離だ。ミレーヌの手を取ってモールまでの舗装された一本道を歩いていると、ミレーヌがふと何かに気づいて空を見上げ、ミレーヌは両腕をこちらに向けて甘えるようにおんぶをねだった。マックスは彼女を背に担ぐ。 するとミレーヌは空を指差し、しきりにママ!ママ!と声を上げる。マックスも空を見上げた。一機のファイター形態バルキリーが空を翔けているのが見てとれる。バルキリーにしては低い高度で滑空している、と目を見張れば、それはよく見知ったミリアの機体だ。ビビッドレッドのカラーリング、鮮やかに飛翔する操縦テクニック。間違えるはずもない。今日は航空飛行訓練だったか、と彼女の職業柄、よくこのコースを滑空していたことを思い出す。よく目を凝らすとはるか遠くに追随する訓練生と思わしき機体が見てとれた。指揮官の機体スピードに付いてゆくことができないのだろう。相変わらずの鬼教官ぶりである。

呆けて空を見つめていると、スラックスのポケットに仕舞っていた携帯通信機が音を立てる。どうやら、独り立ちし、家を出て暫く顔を合わせていない娘達も帰路についたようだ。この時間帯であれば、夕食の時間には間に合うだろう。彼女たちもそれぞれ多忙であるとは思っていたが、今日という日を覚えていたようだ。声を掛けてみて正解だった。マックス微笑えみ、二つ折りの通信機を閉じて元の位置に仕舞いこむ。

マックスは徐ろに眼鏡を外し、再び青く澄み切った空に目を向ける。
一瞬、ちか、と人工的にぎらつく太陽衛生眩しさに目が眩む。だが、まぶしいのは太陽の光だけではないように思えた。彼女の行く先を知らせるように、飛行機雲の軌跡が一本、空を真一文字に横切る。曲がることなく一直線に伸びて、細く長く続いてゆくそれは、これからの二人のゆるやかに途切れることなく続いてゆくであろう未来を暗喩しているように感じられて、マックスは思わず頬を緩めた。






いつまでも美しい君へ。
これからもずっと共に生きてゆけるように、
愛し合ってゆけるように。
君は記念日なんて、と恥ずかしそうに言うけれど。
やっぱり年に一度の大切な日だと思うんだ。


2036年1月ごろのイメージです。

なんだかこのころは二人の関係は不仲だったそうですが、そんなもの、当人達の知るのみぞ、といったところです。実際はこんなだったかも、ですよ^^

[2009年 10月 02日]