date:2009/02/22
ジャンル:ミハクラ
2月のフォルモの街は、甘い香りと賑やかな装飾で埋め尽くされていた。
モールの天井から床へ垂れ下がるホログラムには、HAPPY VALENTINE'S DAYの文字が点滅し、色を変えてくるくると回る。あちこちを彩る装飾品の色はブラウンとピンクに統一され、それが今日、2月14日の恋のイベントの雰囲気を醸し出していた。クラン・クランはそのようなモールの光景を恨めしそうに一瞥する。無意識に口から洩れてしまった溜息に気づき、口をきゅ、ときつく閉じた。腕を組んで歩く仲睦まじいマイクローンたちの姿を横目でちらりと見やって、ふと脳裏をよぎったのは、幼馴染の、彼の姿だ。
いつからだろう、私がミシェルにチョコレートを渡さなくなったのは
バレンタイン、というイベントを苦々しく思うようになったのは。
バレンタインのチョコレートは、毎年母と作っていた。
母は父の為に、クランは小さな、泣き虫の幼馴染の為に。泣いてばかりだったミハエルは、バレンタインの日に他の女の子からの贈り物をもらうことはなく、毎年クランからのチョコレートを嬉しそうに受け取った。クランは「仕方ないからくれてやる」というスタンスを貫いて、ほんとうは器用に結ぶことのできるラッピングのリボンをわざといびつな形にあしらってみせた。
「ミシェルのチョコはお父さんの分の余りなんだ。ついでだからなっ」
毎年毎年同じ決まり文句で渡されるチョコレートには、幼いながらにもミハエルへのたくさんの愛情が込められていた。
年を重ねるごとに、泣き虫だったミハエルは逞しく、美しい青年になっていった。容姿端麗、成績優秀の彼は、毎年バレンタインにたくさんのチョコレートやプレゼントをもらうようになった。ある年のバレンタイン、抱えきれないほどのチョコレートと、それをうけとる彼の嬉しそうな笑顔。自分のものよりも、可愛らしく、見目美しくラッピングされた包みを見て、クランは手に持っていた包みをそっと背中に隠し、ぎゅ、と強く握った。うつむいて唇を噛み、彼に見られないよう、その場を急いで離れた。
もう、私からのチョコレートは、いらない。
それからだ。それ以来チョコレートを渡していない。もう4年前のことになる。
過去に想い巡らし、歩みを進めていると、いつのまにかその足はSMSへ向かっていたようだった。考え事をしていると、頭にもやがかかったようになるのがクランは厭だった。そのようなときは大抵、射撃場での自主練習をし、精神を統一させるのが習慣となっていた。この時間帯、射撃場は他の小隊が利用しているので中には入ることができない。クランは仕方なく宿舎の休憩室へと入った。椅子に腰掛け、テーブルに肘をついてぼんやりとしていると、所々のテーブルから女子の色めき立った黄色い声が聞こえる。話題はもちろん、今日という特別な恋のイベントについてのことだろう。耳を澄ましているわけではないのにやたらとクランの尖った耳に響いてくるのは、彼女たちの意中の相手や恋人の話で、クランの見知ったSMS隊員の名もいくつか聞き取れた。
(ふん、皆色めき立ちおって。)
クランは呆れたように、溜息をつく。練習場が空くまでまだ時間がある。所在なく、顔を伏せて休養しようとしたクランの耳に、よく聞き慣れた名が入ってきた。クランは思わずびく、と身体を揺らし、さりげなく身体を声の方へ向け、耳を澄まして聞き入る。声の先は、クランの2つ前の長テーブルだ。
(あれは…整備班の。名前は思い出せないが。)
「ねぇ、今日ミシェルは出勤なの?」
「今日はオフみたいよ。」
「ええ!じゃあ昨日渡しておけばよかった!!」
「それがね、さっき聞いたんだけど、ミシェル君、今年はチョコレート全部断ってるらしいの。なんでも、虫歯にかかったらしいわよ!!昨日渡しに行ったサリーもそう言って断られていたわ。」
「虫歯?!珍しいわね。それならしょうがないかぁ。」
「む、虫歯?」
クランは思わず声に出してしまい、あわてて口を塞ぐ。
虫歯は今の時代、かなり珍しい病だ。よほどケアを怠らない限り、そのようなことにはならない。現在では医療技術が発展し、非常に効果的な予防策が取られているし、治療だってそう時間もかからないだろう。投薬治療だって十分効果がある。何より、日頃から身だしなみに気を配っているミハエルである。虫歯なんてありえないことだった。
(ミシェル…虫歯なんて。そんなの医者に行けばすぐに治るだろうが。学校とSMSの所為で暇がないというのもわからなくもないが。)
クランはミハエルのことが気がかりになり、薬でも買ってやろうか、と席を立った。休憩室の自動開閉ドアを通り、外へ通じる通路を歩く。すると角を曲がろうとしたところで、向こうから来た者と肩がぶつかった。考え事をしていたクランは、とっさによけることができず、身体がよろめく。
「すまん、ぼうっとしていて、って、ミシェル!?」
クランは声を掛け、顔を上げた。するとそこに立っていたのはつい先ほどまで彼女の頭を占拠していたミハエル本人であった。
「クランか、悪い、小さすぎて見えなかった。」
いつものいたずらっぽい笑みを浮かべ、申し訳ないなどとは露ほども思っていないような口調で応える。貴様ぁ!馬鹿にしおって!とクランはいつものようにミハエルに啖呵を切る。言葉と同時に飛び出したロウな角度からのパンチは、やはり彼には見切られていて、いとも簡単に止められてしまう。クランは片腕を抑えつけられたまま、息を少し弾ませてさらに叫ぶ。
「大体、どうしてこんなところにいるんだ!せっかくのオフなのだろう?医者に行け!」
「医者?なんで?」
ミハエルは訳がわからない、というように首を軽く傾げる。クランは彼の予想外の反応に拍子抜けし、振り上げていた拳を下ろす。
「何故って…お前昨日から虫歯なのだろう?そのせいでバレンタインのチョコレートをすべて断っていると聞いたぞ。」
クランの言葉に、はたと思いだしたような表情をみせ、ああ、もうこんなところまで広まってたのか、とミハエルは小さく呟いた。
「そんなの、もうとっくに治ったよ。…それよりクラン、はい。」
ミハエルは笑顔でそう言いながらクランの方へとまっすぐ腕を伸ばした。
「なんだその手は。」
急に差し出された右手に、クランは怪訝そうに眉を顰めた。
「今日バレンタインだろ?俺にはないの?可哀想な俺は、今年誰からももらえなかったってのに。」
ミハエルはわざと指で眼尻をぬぐうようなしぐさを見せた。その顔はいつものさわやかな笑顔のままである。
「馬鹿者!自業自得だろうが!そ、そんなもの…用意してない!お前が…毎年抱えきれないほど沢山もらっているから…私のなんかよりずっときれいな…だからいらないだろうって…。とにかく、お前の分なんかないぞ!」
いつもの自信たっぷりなクランの口調は、ミハエルの突然の行動にたどたどしいものになる。
「つれないな、クランは。俺毎年おばさんとお前の作るチョコ、楽しみにしてたんだぜ?最近くれなくなっただろ。食べたかったな。」
ミハエルは真剣なのか、茶化しているのか読み取れない口調で話した。
「そういうことは!…早く…言え。来年は…考えておく。」
クランはミハエルの少し落ち込んだような仕草に、う、とひるむと、先刻よりやや穏やかな口調で、しかし照れ隠しなのだろうか、そっけない態度で応える。
顔が熱かった。
クランは思わずうつむいてしまった顔を上げることができない。
ミハエルにバレンタインの催促をされることがこれ程自分を嬉しくさせるなんて。
来年は、作ろう。母との味を思い出して。
一人で作ろう。もう誰かのためなどと、ついでだ、などとは言わない。ミハエルの為に。
一人心の中で決意を固めていると、クラン、とミハエルが呼びかける。
「今からフォルモ行こうぜ。冬限定のカバ牛ソフトのチョコレート味、まだ食べたことないんだ。今年はそれで勘弁してやるよ。」
はぁ、とクランは一瞬言葉の意味を捉えかねて声をだす。しかし、私の奢り、というわけか、と呟いてかすかに笑う。
「ほらクラン、置いてくぞ!」
先に歩きだしたミハエルが遠くからクランを呼んだ。
「待てミシェルっ!まだ行くなんて言ってないぞ!」
そう声を掛けながらも、クランの足取りは軽く、ミハエルの元へと駆けていった。
「ミシェル先輩、虫歯を理由にチョコレート断るなんて少し無理があったんじゃないですかね。ねぇ、アルト先輩。」
「俺、虫歯にかかった奴なんか見たことないぜ。たく、ミハエルの奴、俺達を利用しやがって。」
おかげでさんざんお姉さま方に追いかけられる羽目になりましたもんね、とルカがアルトを励ますように明るく言う。疲れ切ったアルトの口からはため息が漏れた。
「まあミシェル先輩、毎年もらいすぎて苦労してるみたいですから。」
「そんなもん、いらねぇって断っちまえばいいだろうが。たく。」
「ミシェル先輩はフェミニストですから。女性を傷つけたくないんですよ」
「まあいいさ、借りは返してもらうからな。ルカ、行こうぜ。」
やってられない、といった様子でアルトは終業のベルが鳴りだすと足早に教室を出て行ってしまう。そんな彼の鞄の中にも、いつのまにか忍ばされていたチョコレートが鞄のファスナーが閉まらない程に詰められているのだが。ルカは、待ってくださいよ、アルト先輩!と言いながらアルトに走り寄るアルトの横に並ぶと、いつもその隣にいるはずのミハエルのことを思う。
(ミシェル先輩、大尉にチョコレートをもらいに行ったんじゃないかな。はぁ…僕もナナセさんに…)
思わず歩みを止めて考えに耽っていると、ルカ、と少し離れたところから呼ばれ、意識を戻した。そして先を歩くアルトに追い付こうと、急いで駆けだした。