escape from the world of M







「あ、あたしそろそろ行くね。また放課後!!」

午後の始業のベルが鳴り響くと、ミレーヌは中等部の校舎へと戻る為、机の上に広げていたランチセットをてきぱきと小さなペールグリーンのトートバッグへと仕舞いこんで、錆びついたパイプ椅子を畳んで部屋の隅へと片付けた。高等部の旧校舎第二音楽室から中等部の彼女の教室まで、ミレーヌの女子にしては軽やかに駆けるその脚で約7分、食事を摂る場所としてはやや遠隔に位置するこの場所で、ミレーヌはいつも軽音部のメンバーとのランチに興じていた。毎日、昼休みにミレーヌは高等部を訪れる。レイや、ビヒーダ、そしてバサラに会うためだ。放課後の部活動の時に顔を合わせるのだから、昼休みまで共に過ごすこともないだろう、ミレーヌには中等部での付き合いだってあるはずだ、とレイは思っていたのだが、どうやらミレーヌにとってこの場所が、彼らがいるこの空間が居心地のよいものであるらしい。とるに足りない些細な会話、次のライブの打ち合わせ、ビヒーダの肩を借りての昼寝、バサラとの小競り合い。確かにミレーヌは楽しそうに笑う。レイには中等部での彼女の生活についてはよく分からない。しかし、ミレーヌにとって、この旧校舎は絶対的に安らげる場所であって、きっと、中等部の彼女の教室には感じさせない魅力があるのだろう。だがそれより、レイにとってどうも気掛かりな点といえば、別れ際に、彼女がふと見せる寂しげな表情であろうか。それは高等部を離れることへの寂しさなのか、次の授業が始まることへの億劫さか、それともレイの見当違いであるのか、本人に確かめた訳ではないので定かではない。だが、レイにはどうも前者であるように感じてならないのだ。

滑りの悪い木製の引き戸をがらりと開け、ミレーヌはちらりと振り返ってこちらを見る。正確には窓枠に腰掛けてギターの弦をはじく熱気バサラの方をだ。心なしか不安げに揺れる翡翠の瞳は遠慮がちに、戸惑うように見えない合図を送るかのように。そんなミレーヌの視線に気づいてか、バサラが扉の前に立つ彼女の方をちらりと見やる。そして目が合うと、ミレーヌは、はっと我に返ったように慌てて視線を逸らし、背を向けてひらりと手のひらを翻すと、じゃあね、と明るい声色でそう云って、足早に走り去って行った。木枠のガラス窓から、ミレーヌのピンク色のポニーテールが疾駆する律動に合わせてせわしなく左右に振れているのを、レイはバサラの横に歩み寄り、じっと見つめる。道なりに植えられた並木の枝葉によって彼女の姿が見えなくなるまで見送ると、レイはバサラの表情をこっそりと垣間見る。いつも身につけている色の濃い丸縁のサングラスの所為で、彼が何を瞳に映しているのか、何処に視線を向けているのかは判らなかった。ただレイは、彼もまた自分と同じことを考えているのではないか、と思った。彼も、あの寂しげに揺らぐエメラルドグリーンを、脳裏に思い浮かべているのではないか、と。





始業のベルが嫌いだ。そして部活動終了を知らせる校内放送は耳を塞ぎたくなるくらいにけたたましく響く。それが別れの合図なのだと、元の世界に戻る時間だと、そう告げられているかのようだ。逆に終業のベルは好ましく、それは居心地の良い温かい場所へと誘い、そして自分のいるべき場所はここなのだとそう耳元で優しく囁いてくれるようだ。こんなことを彼らに少しでも漏らしたならば、彼らはどのような反応を返すのだろうか、とミレーヌは考える。心優しく気遣い屋のレイならば、そんなミレーヌを心配して話を聴いてくれるかもしれない。きっと中等部で何かあったのではないかと心配してしまうだろう。ビヒーダなら、無言でミレーヌの好んで聴く音楽のリズムを叩きだしてくれるだろうか。傍で聴いているだけで、一緒に歌うだけで元気になれそうだ。では、バサラなら?彼なら何と返してくれるだろうか。彼の事だ、きっとそんなミレーヌの気持ちを、弱い、とか訳が解らない、とかガキだ、とかそう云った言葉で一刀両断してしまうのだろう。ミレーヌはげんなりした表情を浮かべてため息をつく。確かに彼には一生かかっても理解不能な感情だと思う。寂しい、なんて。離れたくない、傍にいたい、なんて。自分自身にだってうまくコントロールできない感情だ。そもそも毎日顔を合わせているのに、その日別れても明日があるのに、どうしてこんなにも一時の別離に、寂しいとか恋しいとかそういう気持ちに心が苦しくなるのかが解らない。自分にだって中等部での生活がある。理事長の娘として周囲からは一目置かれ、文武両道の才女を演じてきた。教師からの信頼も厚く、クラスメイトや年中等部の生徒達からは羨望の眼差しを向けられる。寂しくはないはずだ。周囲には常に人がいる。なのに。



いつものように昼休みに旧校舎へとやって来ると、通常ならばそこで昼食を摂っているレイとビヒーダがいない。殺風景な部屋の中には、窓枠のいつもの定位置に腰掛けて、購買で購入したのであろう惣菜パンを片手に窓の外を見つめる熱気バサラの姿だけだった。ミレーヌが彼らの行方を訊ねると、バサラはレイは日直、ビヒーダは相変わらずボクシング部の勧誘に捕まっているのだと教えてくれた。ミレーヌはいつも昼食の際に腰掛けるパイプ椅子ではなく、バサラの隣に歩み寄り、彼と同じように窓枠に足を掛けて窓の外に脚をぶらつかせるようにして座った。晩秋の少し冷たい風が、ミレーヌの紺色のセーラーカラーと、窓に取り付けられた色の抜けた古めかしいカーテンを揺らす。ぶるりと身体を震わせて、そこで昼食を摂ると決めたことに後悔したけれど、そんなことは口には出さず、黙々と食べ続けた。会話は途切れ途切れに、時に沈黙もあった。だがそれを気まずいとか、退屈だとは思わなかった。彼の目線を追うように、外の景色を見つめる。日々深く色づく紅葉や、雲ひとつない快晴の空、鼻を掠める金木犀の微香、遠くで聞こえる生徒達の声を、バサラが見つめている、感じているであろうそれを、ミレーヌも一緒に感じ取っていた。それだけで、なぜだか楽しかったのだ。そのような理由で、ミレーヌにしては珍しく会話があまりなかったのだが、それを不思議と思ったのか違和感を感じたのか、バサラはミレーヌの方を見つめ、何か言いたげな様子を見せた。それをミレーヌが察する前に、バサラは彼女に声を掛け、唐突に話題を持ち出す。

「お前、ホントに上手くやってんのかよ。」
「へ?何の話よ、いきなり。」

彼の話はいつも唐突に、前触れもなく始まるから、ミレーヌはいつもその内容を掴むのに苦労してしまう。今回もいつものように、そうやって始まった会話は、やはりミレーヌには理解が出来ず、応えることもできなくて、聞き返してしまう。

「そんなカマトト、いつかばれるだろ。」

彼の二言目にして、ようやくミレーヌは内容の断片が掴めたような気がした。彼はミレーヌの、部活動でのバサラ達に見せる姿と、中等部での姿が異なることに関してミレーヌに訊ねているらしい。そういえば、前にバサラと二人でいた際、中等部の学生に出くわした事があった。その時のミレーヌの完璧なまでの猫かぶりぶりに、バサラが目を丸くしていた記憶がある。中等部では麗しき理事長令嬢を演じているのよ、とその時彼に告げたような気がした。だがなぜそれを今更気にするのだろうか。

「そんなヘマしないわよ。絶対。あたし、完璧主義なの。」
「よく言うぜ。コッチではギャアギャアうるせえくせによ。」

うるさいわね、とミレーヌは口を尖らせていたが、ふと下を向き、表情を曇らせる。バサラはそれを見逃がさず、だから、と面倒臭そうに頭を掻きながら云った。

「レイが、心配してる。お前が元気ないって。そういう顔してっから。」

え、とミレーヌは初め言葉を紡ぐことができず、ただ驚いたようにバサラの顔を見つめた。だがようやく事の全容を理解したのか、ミレーヌは、バサラに嘘ついてもしょうがないか、と、小さく笑った。だがその笑顔はいつもの無邪気な彼女のそれではなく、作られた外行きの笑顔だろうか、柔和に微笑んでいるのにどこか寂しそうだった。整ったベイビィフェイスは温度を失った仮面のように、繊細なガラス細工のようにまるで温かみを感じさせない。

「・・・あたしのママ、理事長でしょう?だから、中等部のみんな、あたしに対してなんだかよそよそしいのよね。仲良く話していても何だか気を使われてるみたいで、あたしだけ蚊帳の外なの。でもあたしはママじゃあないもの。あたしはあたしよ。なのに…。」

ミレーヌはくしゃりと顔を歪ませる。無理をして取り繕った笑顔が痛々しい。

「あたしのこと、箱入りのお嬢様だってみんな思ってる。確かに、ママの面子を潰さないようにって才色兼備なお嬢様演じてるけど、そんなのホントのあたしじゃないもん。ほんとうのあたしを知ったら、みんな離れてゆくわ。でも・・・旧校舎で、レイ達と歌ってる時のあたしが本当のあたし。バサラと話してるあたしが、本当のミレーヌ・ジーナスなのよ。だからみんなといるとそういうの、忘れられる。旧校舎にいるときだけ、あたしはあたしになれるの。」


だから、寂しかったのよ、ちょっとだけ。また会えるって、わかってるのにね。


こんなことを彼に打ち明けるつもりなんてなかった。
彼の前では明るく気丈でいたかった。
弱い奴だと、寂しがり屋の面倒なガキだと思われたくなかった。
寂しいだなんて、離れるのが辛いだなんて、馬鹿げている。毎日顔を合わせているのに。


ミレーヌはバサラの顔を見ることができなくて、自分の情けない顔を見られたくなくて、俯いたまま黙り込んだ。下を向いていると泪が零れてしまいそうだった。
するとバサラは、はぁ、とひとつため息をついて、困ったようにこめかみのあたりを人差し指で掻くと、ミレーヌの桃色の細い髪をくしゃりと乱暴に撫でまわした。

「ちょ、ちょっとぉ!なにすんのよっ!」
「別に、中等部だけがお前の世界じゃないだろ。ココにいたけりゃいればいいじゃねえか。」

バサラの言葉に、何か温かいものが胸を満たす感覚に襲われる。バサラは、励ましてくれているのだ。ほんとうの自分と、偽りの自分の間で葛藤する己を。きっとこんな感情を彼が理解できたわけではないのだろう。だけど精一杯汲み取って、ぶっきらぼうだけど優しい言葉を与えてくれる。

「・・・そういうワケにはいかないでしょ・・・。」

云いたいことはそんなことではなかった。けれど素直に嬉しい気持ちを伝えることができなくて、ミレーヌはバサラの肩にこつん、と額を乗せる。ばーか、と照れ隠しに悪態をつくと、彼もこそばゆかったのか、困ったように笑いながら、うるせえ、と言葉を返した。


しばらくすると、レイがやって来て、それから少し遅れてビヒーダも戻ってきた。
ミレーヌはいつものように明るい声で話し、微笑み、優しい声で歌った。昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り響いても、もうミレーヌは寂しそうな表情を浮かべることはなかった。レイはミレーヌのそんな変化に気づいて、安心したように微笑む。じゃあ、また放課後にね、と引き戸に手を掛けてそう声を掛けると、バサラが窓の桟から腰を上げ、ミレーヌの方へと近寄って、ドアを引こうとするミレーヌを止めるように戸に手を添える。ミレーヌは彼の行動を不思議に感じ、何よ、と訝しげに訊ねると、彼は彼らしくなく優しい目つきでミレーヌに微笑んだ。

「またな。」

ミレーヌはその言葉に目を丸くしたが、それから満面の笑みを彼に向ける。

「うん。ありがと、バサラ。」






別れを告げる鐘の音がしつこい位に鳴り響いて、ミレーヌを、元の世界へと戻るようにと急かす。
始業のベルも、校門閉鎖の放送も、もう寂しくはなかった。
ただ終業のベルは今まで以上に待ち遠しくなったのだけれども。